佐渡・真野の西三川付近の国道沿いに、ピンク色の案内板があります。「日本最後のトキ 餌付けの地 宇治金太郎さんとキンちゃんの碑」と書かれています。案内板に従って、行って見ました。
果樹園や田んぼが広がる田園地帯の中に、その「碑」がありました。なかなか立派な碑です。
“キンちゃん”とは、「日本最後のトキ」と云われた“キン”の事です。石碑には、その“キン”に餌付けをする宇治金太郎さん(故人)の姿が描かれています。
宇治金太郎さんは、「キン」の餌付けに成功し、さらにその「キン」を保護した人です。この石碑は、宇治さんがはじめてキンに餌付けをした地に2009年に建てられました。
しかし、宇治金太郎さんとキンのお話は、あまり世間では知られていません。
宇治さんと“トキ子”のお話
昭和43年(1968年)、一羽のトキの幼鳥が真野の地に迷い出てきました。当時、野性下のトキの数は減り続け、能登に1羽と、佐渡に1つの群れが残るのみで、絶滅が目前という状況でした。幼鳥は、その群れから逸れてしまい、真野までやってきたのです。
その前の年には佐渡トキ保護センターが開設され、人工繁殖の試みが始まったばかり。当時はトキの生態の全容も分からず、飼育は難航していました。
真野町(当時)は環境庁の指示を仰ぎ、トキの観察と餌付けを試みる事にしました。そして「野鳥の会」の会員と言う理由で、地元の公民館の館長を務めていた、農家の宇治金太郎さんにトキの監察員を依頼しました。実は宇治さんはそれまで、本物のトキを見たことは無かったそうです。
宇治さんは毎朝、同じ服を着て、何キロもの道のりを歩きトキの元を訪れ「コーイ、コイコイ」と掛け声をかけました。最初は遠くから、少しづつ距離を縮めていき、餌のドジョウを与えました。
最初は警戒していたトキも、宇治さんにだけは心を開くようになりました。宇治さんの「コーイコイコイ」という声を聞くと飛んできて、宇治さんの姿を見つけると、足元に降り立ち、宇治さんの手のひらから直接、餌をついばむようになりました。
宇治さんも「トキ子、トキ子」と呼び、我が子のようにかわいがりました。ここまで野生のトキと心を通じた人は、それまで他には居なかったのです。
その年の冬は豪雪に見舞われました。トキ子を心配した宇治さんは、奥様と一緒に天候が悪い中トキ子を探し回り、無事を確認するととても安堵されました。
真野に環境庁が派遣した捕獲班がやってきました。「トキ子」をこのままにしていると死んでしまう危険性が高いため、捕獲して人工繁殖を行うことになったのです。
しかし、無双網で捕えようと近づいてくる捕獲班を「トキ子」は警戒し逃げてしまいます。その度に宇治さんは、「トキ子」との信頼関係を作り直しました。それが何度も繰り返され、結局捕獲は失敗しました。捕獲班は真野町(当時)に、「トキ子」を捕獲するよう指示して、引き揚げて行きました。
困った町は、宇治さんに「トキ子」の保護を依頼します。宇治さんも、保護しなければ「トキ子」が生きていけない事を理解していました。
それでも「俺の事を信頼しているトキを捕まえる事は出来ない」と、決心がつかなかったのです。
しかし、季節が冬から春に向かっていきます。天敵の鷹やカラス、野犬なども動き出します。「トキ子」も成長し、移動範囲が広くなり監視しきれなくなってきました。さらに春になれば、農作業が始まり、田畑には農薬も散布されます。
このまま保護しなければ、「トキ子」は夏まで生きてはいられない事は決定的でした。
3月のある日、「トキ子」がいつ現れる餌場姿を見せなくなりました。必死に「トキ子」を探し回る宇治さん、真野町教育委員会の職員達も、職務を放り町中を探し回ります。ようやく見つけたのは、普段居た地から7キロも離れた場所でした。に悩んだ末、宇治さんはついに「トキ子」の捕獲を決断します。
いつものように、「トキ子」は宇治さんの元に降り立ち、餌をもらった後、宇治さんに寄り添うように座りました。宇治さんは「トキ子」を、優しく抱きかかえるように、捕獲しました。
「トキ子」は、騒いだり抵抗したりせず、じっと動かないまま、ただ小さな声で「クヮー」っと鳴いたそうです。
その時、宇治さんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていました。
「俺は世界一の裏切り者」
当時、トキの人工飼育技術はまだ確率されておらず、保護センターで飼育し始めたトキが次々に死んでしまう状況が続いていました。
宇治さんは「トキ子」を保護した直後、保護センターのトキが1羽死んだという知らせを聞かされます。この段階で、人工飼育されたトキ5羽のうち4羽が死んだのです。宇治さんは「車の窓を開けて「トキ子」を逃がしてやろうか」と思ったそうです。
宇治さんは、自身の手で「トキ子」の自由を奪ってしまった事を生涯悔やみ続けました。あまりに落ち込んでいる宇治さんを見かねて「もし捕獲しなかったら、今頃野犬に襲われて死んでしまってたかもしれんちゃ」と励ますも、「・・・自分は世界一の裏切り者ですっちゃ・・・」と答える事しかできなかったのです。
歳老いた体に鞭を打つように、毎月、宇賀神様の593段ある石段を登り、泊りがけで「トキ子」の長寿と子孫繁栄を祈願し続けました。
亡くなる直前のうわ言でも、「トキ子」の事を気にかけていたと言われています。
(参考:「朱鷺の遺言」小林照幸/著 1998年刊 他)
キンは生き続けました
トキ保護センターに移送された「トキ子」は、宇治金太郎さんの名前から一字もらい「キン」と名付けられました。飼育に当たったのは、初代佐渡トキ保護センター長の近辻宏帰さん(故人)です。
昭和56年、佐渡に残っていた最後の5羽が保護され、佐渡トキ保護センターに移されました。この時、野生下の朱鷺は全て姿を消したのです。(中国・洋県でトキが発見されたのはこの数ヵ月後の事でした)
子孫こそ残せなかったものの、宇治さんの願いが通じたのが、「キン」は生き続けました。他のトキが病気や事故、寿命で逝ってしまう中、最後の一羽になっても「キン」は生き続けました。
幼鳥から老齢期に渡った「キン」の永年の飼育記録は、その後の中国・洋県のトキ人工繁殖におおいに役立てられました。
1999年、中国からトキのつがいが贈られてきます。翌年には雛が誕生し、やがて保護センターのトキの数も増えてきました。数年後には25羽を超え、一度は絶滅したトキの「復活」が現実味を帯びてきたのです。同時に佐渡では、トキとの共生を見据えた“環境づくり”が進められました。
2003年10月、仲間が増えた事を見届けたように「キン」はその長い生涯を閉じました。推定年齢36歳、トキの飼育記録としては最長、鳥類としても異例の長寿でした。
晩年は一日ほとんど動くことが無かった「キン」ですが、その日の未明、突然羽ばたき、高く飛びました。そして、天井に激突してしまったのです。
「キン」が、何を思って突然飛ぼうとしたのか、何処へ行こうとしたのか、それは誰にも分かりません。
でも、きっと天国で大好きな宇治さんと再会したのでしょう。
「キン」が繋いだ、トキ放鳥
もし「キン」が、他のトキと同じ頃に死んでいたら、恐らく佐渡トキ保護センターは役目を終えたとして閉鎖されていたと思います。そうなれば、中国からトキのつがいが贈られてくることも無かったのではないでしょうか。
よく「日本のトキは絶滅した、今いるのは中国のトキだ」と仰る人が居ます。それは確かにその通りです。日本で一度、トキを絶滅に追い込んでしまった事実は決して消すことはできません。
しかし、「キン」が生き続けたからこそ、今があるということ。そこには、近辻さんや宇治さんの強い思いがあり、それに応えた「キン」の存在があるという事も、ぜひ知って頂きたいです。
スポット情報
宇治金太郎さんとキンちゃんの碑
- 佐渡市田切須地内
佐渡トキ保護センター(トキ資料展示館)
- 新潟県佐渡市新穂長畝377−4
- 開館時間 午前8時30分~午後5時(入館締切 午後4時30分)
- 休館日 毎週月曜日(3月~11月までは無休)、年末年始
- 協力費 大人(高校生以上):1人400円/小人(小中学生):1人100円
この記事のライター あらきやすし(会社員)
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